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長島理氏インタビュー 字幕テキスト
車椅子生活になった経緯についてご説明ください
長島氏:私が大学へ入ったのは、18歳のときに入ったんですけれども、もともと化け学とかですね、薬学みたいな、そういうような分野が好きで、工学部の中でそういうことを勉強したいなということで大学に入りました。2年間、普通にですね、一般の学生として、授業は出て、あとアルバイトをして、サークルをやってっていう、まあごくごく一般的な学生生活を送っていました。
それがですね、2000年の3月なので、大学2年生が終わる春休みのときに、車の下敷きになる事故に遭って、もうその瞬間にですね、車から引っ張り出してもらったんですけども、そのときにいわゆる臨死体験みたいな体験をして、ほんとに生死の境をさまよったわけですけども、それから何とか、一応、生きてはこられたという中で、その時点でもう足が動かないなっていうのは、すでに気付きました。そのときに、「脊髄損傷」っていう言葉だけは知っていて、概念としては知っていたので、「これは脊髄損傷ってやつですか」みたいなことを、レスキュー隊の方に聞いたりもしたんですけども、当然、レスキュー隊の方は、その診断もできるわけもなく、「とりあえず落ち着いて。病院に早く行きますから、落ち着いてください」みたいなことを言われて、病院に連れてってもらったという状況なんですが、翌日には緊急手術をして、一応、けがとしての処置はしたわけですけども、そこから二度と、歩いたりあるいは感覚を取り戻したりっていうことはできずに過ごすことになりました。
車いすバドミントンを始められた経緯についてお話しください
長島氏:[最初は]ICUとかにいたんですが、一般病棟に来て、大学時代の友人が代わる代わるお見舞いに来てくれたんですね。「大学戻ってこいよ」と、サークル活動してたものですから、そこに「戻ってこいよ」ってことをすごい言われて、「俺の戻る場所はここだな」っていう感じで、だからこそ、遠い将来を考えるのではなくて、半年後の将来を考えて、大学に復帰して、また元の友達と一緒にスポーツがしたいというふうに思った、というのが当時の経緯といえば経緯です。
インタビュアー:そのときは、競技にすぐ戻れないことについては、ご自身はどのように受け止めてらっしゃったんですか。
長島氏:はい、当時、2000年にですね、『パラリンピック』 っていう雑誌が創刊されたのかなんか、8巻ぐらいで、ちょうどシドニーの年だったので、特集されてたんですね。各競技に対していろいろ説明があったりとか、いろんなスポーツの団体の連絡先があったりして、そういうところで情報を得て、まあちょっと、今やりたいスポーツに対して、「元々これぐらいやってて、こういう経緯でけがしたんですけど、どうしたらいいですか」っていうことを聞いてですね、連絡をして、大学近くのところに障害者のスポーツのクラブがあったものですから、そこに行って情報を得て、そっちで主戦場にするというよりも、そこで得た情報を使って、例えば競技をするための車椅子の情報を得たりとかして、そういう情報を元に車椅子を買って、一緒に競技するとか、サークルで一緒にやるとか、そんなような使い方をして、自分でも、ある程度だったら、まあサークルですので、レベル高い人からほんとに大学から始めましたっていう人までいるものですから、そういう人相手ぐらいだったら何とかなるかなとも思って、それでやれたっていうのはよかったのかなと思います。
理工系の研究をする上でどんな障害がありましたか?
長島氏:[大学3年になると]研究室に配属されるっていうことがあるわけですけれども、研究室の配属はですね、成績順で選べるっていうルールになってました。私、大学を主席で卒業したんですね。なんですけど、結果的にはそうなんですけど、その時点でも1番か2番かっていう状況だったのですから、どこでも研究室は行けたんですね、成績順なもので。ただ、私がここに行きたいって言ったときに、ここなら行けるかなって思ったところで選んだんですよ、実は。なんですけど、そこに断られたんですね。「車椅子っていうのだと、なかなか難しいよね」っていうことがあって断られて。で、成績は良かったとしても、車椅子に対してはこういう扱いなのかってのは、その時すごい思いまして、今から約20年前となると、『ビューティフルライフ』[注:車いすの主人公の登場するテレビドラマ]とかがやってた後だったと思うんですけども、多少、バリアフリーとかっていう言葉が出てきて、まだユニバーサルデザインっていう言葉は、少なくとも巷には広がってないような時代だったんですが、そういう時だと、なかなか、車椅子の人に対して研究をさせるっていうことはなかなか難しいのかなっていうのは思って。どうしようかなって思ったときに、16個、私のいた大学の学部では、研究室、専攻と言いますか、講座があって、その16講座の先生全員に、「長島さんを受け入れる用意があるかっていうことを聞いてください」ということを、担任か副担任の、もう一人の先生に聞いていただいたところ、5個から「受け入れてもいいよ」っていう回答をいただいて、その5個の中で、元々「ここ行きたいな」って興味持ってたところが1つあったものですから、そのところに行かせていただいたということになりました。
その先生は、何て言いますか、良くも悪くもあんまりそういうこと気にしない先生でして、今でも非常に恩師でお世話になってる先生なんですけれども、私が車椅子であっても、何て言うんですか、差別しないというか、良くも悪くも気にしないというか。実験器具とかは、高いとこにある物もあるので、低いとこに設置していただいて、自分でできるように、シリンジでやるところを、ポンプみたいなものなら同じことができるだろうってことで、ほんのちょっとなんですけど、変えていただいて、それで実験をすることができるようになって、研究そのものが、めちゃくちゃ重い物を持ったりとか、そういう大きいスケールでやるってものでもないものですから、場所さえ確保されて、車椅子でもできるようにすれば、別に何てことなくできる研究だったので、それをすごいやったという形でした。
どちらかというと、私が結局、最終的に入った研究室のほうが、「これ、車椅子には難しくない?」っていうことを結構やってたところだったんですね。でも、やらせてもらえたと。じゃあなんでその[初めに希望を出した研究室の]先生が私を受け入れなかったかというと、もうここは推測なんですが、おそらくリスクを負いたくなかったんだと思います。先ほど申し上げたように、成績はいい学生だったので、ある程度、実験の成果とか出す可能性はもしかしたらあるかもしれないけれども、かといって、そういう可能性よりも、何か問題起こすリスクのほうが、あるいは、けがをする、されるリスクとかのほうが高いじゃないですか。ていうか、そう考えてもおかしくはないと。今になって思うとですね。そういうことを、総論賛成各論反対じゃないですけども、どこかにそういう学生がいるのは非常にいいことだ、ただし、うちはいやだよ、というようなところが、2つ[の研究室]に断られたとこじゃないかなというふうに考えています。
就職に際してはどんな苦労がありましたか?
長島氏:今もそうだと思うんですが、エントリーシートとかを出して、それから面接に行くっていう流れになると思うんですが、当時はエントリーシートを手書きで書いて提出してたんですね。同じ研究室ですから、大体、志望するところも、似たようなところも出す人が多くて、とある会社にエントリーシートを出して、他の学生は、同期は、すぐに、「じゃあ面接に来てください」と言われるんですけれども、私に関してはレスポンスがないというのがあって、何だろうなと思ったら、やっぱり、「車椅子だとちょっと難しいです」っていうことを言われたってのが結構ありました。
これだとちょっと、エントリーシート書くのも、ものすごい労力を要するので、これはちょっと、先に電話してから事情を説明して、受けられるとこだけ受けようって作戦に切り替えてですね、そこでやっていったわけです。当時の感覚として、7割ぐらいは、「ちょっと車椅子の方は難しいです」っていうことで、電話口で人事の方に断られて、とある金属の会社では、「私たちは金属扱ってるんで、重い物は車椅子の方は持てませんから無理です」みたいなこと言われて、金属の研究だって、ナノレベルでやる研究だっていくらでもあんだろうとこっちは思ったんですけど、電話口でそういうふうに言われてしまうと、「あ、そうですか」としか言いようがないので。逆に、むしろそうやって断られるってのは、私としてはありがたくて、何て言うんですかね、もっと嫌だったのが、「ああ、車椅子の方ですか。そうですか。じゃあちょっと検討してみますんで、エントリーシートだけ書いてください」っていうケースが一番困って、そういう会社何社かあったんですが、実際にエントリーシートを書いて送っても、それこそさっきの話じゃないですけど、他の人は1週間で返事があるところを、1カ月たっても連絡がないということがあって、ちょっとしびれを切らして、「実はこんな経緯があったんですけど、どうなんでしょうか」って聞くと、「やはり検討した結果、車椅子の方は難しいということになりました」っていうことを言われてですね、この時間は何だったんだと、検討すると言って、学生を何だと思ってんだっていうことは正直思ってですね。とある最終製品も作ってる会社なんですけど、今でも根に持っていて、その会社の製品を買わないって決めて、今でも使ってないです。それぐらい、私にとっては一生懸命やってるところを、大人の事情というか、事なかれ主義みたいなとこもあって、その瞬間は責任は持たないけど、やっぱ駄目みたいなことを言って、時間と労力を奪われたっていうことに対する怒りみたいなのは、かなりありましたね。
一方で、面接まで行ければ俺は結構やれるんだっていう、当時としては、根拠のない自信があって、何とかそこまで行ければと思って過ごしていたわけですが、それができなかったという中で、いくつか面接まで行けるっていう会社がポツポツと出てきたというのがありました。そうなるとですね、すごい流れが急に変わって、一次面接を抜けたやつに関しては、結局、全部最終面接まで通ったんですね。最終的には、4つ内定をもらって、結構大手さんからも、結局、大手狙いだったので、大手ばっかなんですけど、内定をもらって、その中で、元々、企業研究みたいのをする中で、こういう業態に行くと面白いなと思った会社が今の会社だったので。あと、面接に行くっていう中で電話したときに、「実は車椅子なんですけど、採用ってできるんですかね」みたいなこと言ったら、「全然問題ないですよ」って、「実力で判断するから一般応募枠になりますけど、そこから応募してくださいね」みたいな感じで言われて、「何? 車椅子なんか全然気にしないんすけど」みたいな、そんなテンションで言われたことに、逆に、そんな会社があるんだと思ってですね。その調子で一次を抜けたら、二次ぐらいに行くときに、もし私が会社に行った場合は、「これこれに寮がありますから、その辺は心配しないで大丈夫ですよ」みたいなことも、選考の結構早い段階から言ってくれてですね、そこまでもう考えてくれてんだと思って、この会社はいいなって思って、まあ幸いそれが最終まで通ったというのもあったので、給料だけでいったら今の会社よりももうちょっと条件がいい会社はあったんですけども、そういった雰囲気も踏まえて、そこを選んで就職をしたという経緯でした。
研究職としての仕事とパラスポーツの両立についてお考えを聞かせてください。
長島氏:私が会社に入ったのが2005年ということで、研究志望で入って、場合によってはシステム系に移るかなということもちょっと思っていたんですけど、幸い、研究職として採用されました。その中で、少し遠い将来のことをやるような部署、直近の開発というよりは研究っていうとこに配属されてですね、何て言いますか、よく分からないものを研究するような、世の中には眉唾ものはいっぱいあるけれども、眉唾ものは、場合によっちゃあすげえいいものもあるかもしれないみたいな、そういうスタンスもあって、それをほんとに科学的に研究してやってみようみたいな感じの部署で、あんまりお金にならなくても、ほんとに意味あるものであればやっとこうみたいな、そういうようなスタンスの部署に配属されました。そこでいろいろやっていったんですが、研究テーマもいろいろある中なので、自分がやれる研究を与えてくれてというか、逆に言うと自分で見つけて、そういう研究をしていったという感じだったので、特にこれといって困るっていうことはあんまり感じませんでした。そこはそこでそれなりに苦労はあったんですけど、最終的には商品にもなりましたし、特許にもなりましたし、その特許も会社としては結構評価されて、表彰されたりも後でしたんですけど、そういう形で、自分の研究が仕事に生かされるっていう過程を見て、ほんとにこれは取り組めて良かったなっていうのはすごい思って、この研究なり開発なり、そういう理系の仕事として、ものを作るっていうことの醍醐味をほんとに感じられた瞬間ってのはそこだったかなっていうふうに思いました。
そこでそうこうしてるときに、今まで主には触れてなかったですが、スポーツを私はずっとやってるわけですけれども、東京2020が近付いてくる中で、その大会を目指せる人材であるというかですね、会社としてはそういうふうになったというのがあって、まあそういう研究をできる人は私以外にもいると。だけど、オリパラを目指せる人、パラを目指せる人ってのは、まあいないということを考えたときに、会社としてはそういうところ目指すように応援するほうが、会社としては価値があるんじゃないかっていうのも思いとしてあったようで。会社としても、明らかに今までの空気と違って、お金の面でも待遇の面でも変わってきたと。で、そのときに、ちょっと正直なところ困ったというか、これどうするべきなのかなっていうのは、すごく、結構、年単位で思いました。今の生活を続けることはきっとできないだろうと。研究をしながらスポーツをするっていうことはやるけども、ウエイトは明らかに、仕事優位なところから、半々か、スポーツが優位になってくる。そうしたときに、自分のキャリアとかを考えたときに、まあ例えば給与面とか出世とかそういうことを考えたら、スポーツしないほうが多分やりやすいんだろうとは思ったんですね、そのときは。だけど、会社としてはそっちをやってほしいと言ってると。じゃあ自分としてはどうなんだ、ということを自分に問うてですね、どうしようかなと思ったけど、でも、これはやらないっていう選択肢はないよなっていうのは、うすうす自分の中では思ってて、それをよしと思えるまでに年単位でかかって、2017年に東京に出た、という経緯なので、なかなか踏ん切りはつかなかったけども、バドミントン、スポーツに重点を置こうとは思ったという形ですね。
じゃあ、その後どうしたいかっていう話になると思うんですけど、結構、そこが悩みどころで、自分の能力っていうのが、大体、この年になると見えてくると思うんですけど、まあ、研究って、大体やっぱり、ピークが30代だったりするのもあるので、だから、そういう感じも気づき出すわけですね。じゃあどうしたいんだろうってのは、今、それを悩んでるところで、いろいろ、アスリートの活動とか、それに関連して、人事的な、ダイバーシティに関することとか、インクルーシブだったりとか、あるいは広報的な活動とか、そういう活動してきてるんですね。そうすると、今の自分のキャラクターって、やっぱり、キャラクターっていうかポジションって、唯一無二なんですね。障害を持ってスポーツをしてて、会社の中で、ある種、象徴的なポジションをさせてもらってると。それを生かさないのも、かえってキャリアの中ではもったいないのかなって思ってて、なんか、こういう活動をしてきたことを会社の人に還元するとか、方向出すとか、そういうことに携われれば、自分として、会社の中の役割は一番果たせるのはそこかなってのはちょっと思ってます。
ただ、それが自分のやりたいことかっていうと、今は正直まだ分かんなくて、やっぱ研究をやってると楽しいですし、そういうことはしたいけど、会社の中でうまく生きる、あるいは出世をするっていうことを考えるんだったら、たぶん、そういう人事的なこととか、そういう障害者であるがゆえに体験できたこと、してきたことを伝える役割っていうのもあるんだろうなと思って、今はそこで、どうしたいんだろうっていうのが、まあ、いろいろ悩んでるというか揺れてるとこで、そうはいっても、今は競技を通じて活躍するっていうことが主力なのかなって、プラスアルファで、それを通じて得る成果を研究に生かせればいいかなってのが今のスタンス、とまあ、そんなような感じですね。