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島袋勝弥博士インタビュー 字幕テキスト
ご自身の専攻分野や研究内容について教えてください
島袋博士:私の専門は、生命科学になります。生命科学の中でも、特に生物物理学という、ちょっと聞き慣れない分野になります。これは、基本的に生物の分野なんですけど、体をつくっているものですね、それはいろんな段階があるんですけど、個体、例えば、ヒトで言うと人ひとり、あるいは器官、臓器とか組織、それで下がっていって細胞とかいうレベルになって、それから細胞の中身のタンパク質とか、そういう話になるんですけど、そういった生命をつくっていくものを物理的に調べるのが私の専門になります。具体的には、今は微生物、植物プランクトンとかの動きを、顕微鏡で見るという研究を主にやっています。あるいは、その微生物のとても細かい形を、さらに、ものすごくごつい、大掛かりの顕微鏡があるんですけど、電子顕微鏡という、それで見て、あるいは、見るための技術を作るというような研究をしています。
症状に気づいてから診断を受けるまでのことを教えてください
島袋博士:実際、目が悪くなったのがいつごろかって言われると、具体的に発症時期は分からないんです。ただ、高校時代から、目の様子はおかしいと自分で思っていて、例えば、薄暗い映画館へ行くと、他の人からはぐれて迷子になる。あるいは、決定的だったのは、大学生の頃ですね。仲間たちと一緒に、しし座流星群っていうのを、夜、見に行ったわけですね。で、海岸に寝そべって、流れ星がたくさん流れているのを見るんですけど、それがひとつも見えなかったんですよね。明け方に、本当に明るい流れ星が通っていったにもかかわらず、僕も空が光ったのは分かったんですけど、そのときの流れ星っていうのは捉えることができなくて、これはもう絶対おかしいと思いながらも、生活に特に支障がなかったので、そのまま進んでいたんですけど。
22のときに、本を読んでたんですね。私、大学で生命科学、生物系を専攻していたので、目の仕組みについて書いてある本を興味あって読んでいたわけですよ。で、その中に、網膜色素変性症の紹介があったんですね。その紹介で、典型的には夜が見えない、夜盲から始まって、だんだんだんだん視野が狭くなっていく、というような説明があったんですね。これは、もちろん僕にとってすごく心当たりあるわけですよね。そこで、本を放り投げてですね、指を1本、目の前に、片目つぶってですね、指を動かしたんですけど、そうすると、見えてる視野から指が消えるんですよ。で、右目で試して、左目で試したんですけど、どちらも、目の中心から少し動かしたら指の先っぽが消えたんです。そこで、僕、視野がなくなっている、だとしたら、この本に書いてあるような網膜色素変性症っていう病気だろうってことも、ほぼそのとき自分で確信したんですよ。で、その確信を、眼科医の先生に、何ていうんですか、診断を受けて納得させてもらうために、眼科医を初めて訪れたっていうことになります。
障害をもちながら研究を続けて就職するまでの道のりについてお話しください
島袋博士:大学院の学生の頃は、実は、目のことというのは、誰にも打ち明けずにずっと隠してきていました。それ自体は隠し切れたんです。というのは、まだ症状はそんなに悪くなかったっていうのもありますし、もうひとつ、僕にとって幸いだったのは、僕の研究っていうのは顕微鏡と向き合う研究なんですよね。ということは、真っ暗な部屋の中で、顕微鏡と1対1で向き合って、ひたすら実験するっていうものだったんです。ということは、周りから見てる人がいないわけです。それで、私、視野が狭いので、物を探したりとか、あるいは、例えば顕微鏡にサンプルを置いたりとかするのに、少し手間取ったりするんですけど、その様子は誰も見ていないわけです。ということで、ある意味、隠れて実験することができたので、大学、学生の頃というのは、特別な支援を受けずに終わらせることができました。
私、 さっき、基本、大学院時代は誰にも話してなかったとは言ったんですけど、実は、大学院時代の研究室の教授だけには、病気が分かったほぼ直後にお話ししました。「大学院の博士課程は行きます。ですが、万が一、途中で目が悪くなるようなことがあったら、進路変更をすると思います。そこは了承してください」っていうことを、教授に伝えたんですね。教授は、一言「分かった」と言って、「悪くなったりとか何かあったら、いつでもちょっと相談に来なさい」っていうことは言われていて、それから後っていうのは、もうずっと卒業するまで、僕と教授だけの秘密というような感じで、周りに伝えることもなくやってはいきました。
私の場合はですね、大学院を終わらせた後に、1年間は実はその研究室で続けて働いたんですけど。その後は、子どもの頃から、どうしても海外で生活してみたかったんです。海外で勉強してみたかったってことがあったので、私、実は、2005年ですね、目が悪いにもかかわらず、後先のことを考えずに、アメリカにある、フロリダのほうにある大学に、博士研究員として武者修行に出ました。で、この武者修行は、結局6年近く続きました。
国内で就職活動というときで、実は一番最初に困ったのは、アメリカから日本に職を見つける所なんですね。そこがきっかけがなくて、どうしたもんかと思ったんですけど、実は、ここで手を差し伸べてくれたのが、大学院時代の教授なんですよね。大学院時代の教授に、「そろそろやっぱり日本に帰国したいんだけど、どうしたらいいか」ってものを連絡したんですよね。で、しばらくしたら、教授から、「島袋君、ひとり研究員の枠が空いたから、この際、帰国しないか」と。1年間しか雇えないんだけど、そこで研究しながら、同時に就職活動もして、日本国内でやっていいからっていうことで、「どうだ、帰ってこないか」っていう打診がありましてね。それが僕にとってはものすごくうれしくて、それで、「じゃあ、ぜひお願いします」っていうことで、まずはアメリカから日本に戻ると。東京なんですけど、東京に戻ることを選びました。
就職活動はですね、結果から言うと、かなり苦労しました。というのはですね、大学院の恩師は、実際、僕が日本にいるときに唯一、目の障害のことを話した相手だったわけですね。僕はそのときから、実は、企業とか民間含めて、障害者枠ってあるのを知ってたんですよ。知っていてですね、教授と相談して、ぱっと見は、やっぱりそんなに障害者に見えないし、ちゃんとパソコンとかできるんです。だったら、障害枠で仕事を探したらどうだっていう話になって、障害枠で仕事を探し始めました。専門の会社があるんですよね。障害者を紹介する専門のエージェントっていうのがあって。まず、そこに登録をしました。そこに登録したら、紹介があるわけですね。で、面接まで行くんですね。そのときに、私は、生命科学の博士号を持ってるってことと、アメリカに6年いたので英語はそこそこできるっていうことで、声が掛かるだろうと思っていたんですね。で、最初のうちは確かに、声がちょこちょこ掛かったんですね。ただですね、面接を受けてもですね、通らないんです。通らなくて、通らなくて、通らなくて、気が付くと、選択肢が減っていって、エージェントのほうからも、「すいません、もう残ってる仕事は、在宅でできる英語の翻訳とかなんですけど」という状態までなりました。それで、これではいかんなっていうことで、民間で就職しようと思って、しかも正社員で、と思っていたんですけど、ちょっとこれは無理だなって思って、考えたときに、もう障害者枠は関係なしに、やっぱり大学とか、そういう高等教育機関というのが自分のことをちゃんと評価してくれるんじゃないかと思って、その年の12月ぐらいに方向転換して、民間は取りあえず捨てて、大学関係に応募しようと決めて、実際、いま、応募してここにいるわけですよね。結局、でも、大学関係に出すって決めたんですけど、出したのは、今いる場所だけです。運よく採用されて、今ここにいるという。これも、首の皮一枚つながった話ですね、はい。
進行性の病気ならではの葛藤についてお話しください
島袋博士:やはり右目が視力出なくなったっていうのが一番大きなきっかけで、精神的なショックを受けました。網膜色素変性症は進行性の病気であるとはいわれてるから、いずれこういう日が来るっていうのは、心の片隅では思ってはいるんですね。思ってはいながらも、この病気っていうのは、人によっていろいろ違うんですね。見え方も違うんですけど、進行速度が人によって違うんですよね。そうすると、やっぱり、この病気を診断されたときに、私の場合は視力が眼鏡かけて1.0あったときに、思ったのは、「この病気なんだけど、自分は何となく進行は遅いほうなんだろうな」って勝手に思い込んでですね、結局、現実と向き合うことを避けるんですよね。私も結局、避け続けて、避け続けて、でも、やっぱり目が悪いので、周りに一応、「目が悪いよ」っていうのは、30過ぎてからは言ってはいたんですけど、それなりに仕事もできる、日常生活も、車は運転できないですけど、都会にいたら特にあれですね、不便はしない、ということがあって、結局、受け入れない。受け入れないっていうか、避けるって言ったほうがいいですね。受け止めないで、避けてきて、避けてきたというところで、実際は、もう右目の視力は0.0ですっていう数字を突きつけられると、もうこれは、いよいよ避けられないんです。本当に向き合わないといけないんだっていう。自分は、心の底から、本当に視覚障害者で、もう今後、健常者と同じようには生きていけないんだっていうことを受け止めざるを得ない。ただ、受け止めざるを得ないっていうのは分かってながらも、心の準備はできていないので、受け止められないんですね。で、そこで起こるのは、やはりパニックになるんですよね。私も、結局パニックになって、できないことが増えて、正直、今やってる仕事はもう辞めないといけないんだなっていうところまで、精神的には追い詰められました。
インタビュアー:でも、 そこから戻ってこられたわけですよね。それが、どうやってかなりどん底のところから戻ってこられたのかなというのを、ぜひお聞かせいただけますか。
島袋博士:やはりあれですね、前例と当事者団体になります。当事者団体には、やはり、視覚障害を持ちながらも、全盲の方もいらっしゃいますし、私みたいに弱視の方もいますが、それを持ちながらも、就職して働き続けているっていう、そういう人が集まってる団体があるんですね。私はそこに、実は、相談メールを投げたんですよね。投げたところ、実際、私は返事はそんなに期待してなかったんですね、なかったんですけど、例えば、もう全盲になった、僕と同じ病気で全盲になった人が、「いや、私、研究員続けてますよ。補助員付けながら、プレゼンテーションの資料を作りながら、続けてますよ」とか、あるいは、「私は大学で数学を教えてますよ。で、こういうふうにやって、やってますよ」という情報が入ってきたんです。それが入ってくると、「あ、できなくはないんだな」というのは、うすうす思い始めたんです。でも、その当時の僕から見ると、そういう人たちっていうのは、ある意味、超人だったんです。自分がそういう存在になれるかというと、いや、全くその自信はなくて、で、前例はある、前例はある、っていうことを耳に入れながらも、「いや、そうはなれないだろう」という。もちろん、目が悪くなったっていうのと、精神的に落ち込んでたっていうのがあるので、とてもじゃないけど彼らのようにはなれないだろうと思いながらも、結局は、彼らからアドバイスがあったので、僕はもう選択肢はないので、彼らからのアドバイスに従って、結局、特別な機関でリハビリを受けるっていうことをして、それから今、戻ってきたっていう、そういう流れになります。
リハビリを受けて復職するまではスムーズに進みしましたか?
島袋博士:実際、僕、2017年の5月にそのリハビリ施設に入ったんですけど、1カ月ちょいたったときですね、6月末ぐらいですかね、一度、家に戻ったんですよね。何か、何でリハビリしてるか意味が分からない。白杖訓練、白い杖つく訓練とかは分かるんですけど、例えば、パソコン訓練って音声で読み上げてくれるとか、あるいはロービジョン訓練で目の使い方をやるとか言われても、これが果たして、仕事に戻るときにどこまで役立つのか。特に、僕は、自分は顕微鏡学者なので、僕は顕微鏡学者でものすごく目を使っている。で、この程度の訓練で戻れるわけないだろうみたいなことがあって、実は 1回ですね、リハビリ、僕、打ち切ってるんですよ。
打ち切って、結局、何したかっていうと、家の中に引きこもっていたんです、実は。引きこもってる間にも、当事者団体の人たちから心配して声が掛かってきて、僕もだんだん、2カ月ぐらい引きこもってる間に、もういつまで引きこもっても意味がないと。取りあえず、復職するためのリハビリっていう考え方を、まず捨てました。取りあえずリハビリを終わらせる、それから考えるっていうふうに決めて、で、8月、盆すぎにですね、そのリハビリ施設に戻りました。
インタビュアー:ご自身としては、そんなに自信もない、自信が得られないまま復職されて、徐々に現場で自信を付けられていったという、そういった感じだったんでしょうか。
島袋博士:そうです、まさにそのとおりです。徐々に自信が戻ってきたっていうことになります。きっかけとなる出来事があったわけではないです。ただ、リハビリ施設に入って、それから戻ってきた私は、常に白杖を学内でもつくようになったわけです。そうすると、周りから見て、視覚障害者だってぱっと分かるわけですよね。その情報も、私が復職するときにあたって、全教職員に共有しました。そうすると、教職員の方も気を使ってくれるようになったわけですね。「この仕事、先生はちょっと難しいか」、「この仕事、何か手伝いありますか」ということで。要するに、情報を共有することによって、僕の働きやすさが変わったんですね。環境がすごく良くなったわけですよね、周りの理解が得られる。ということで、結局、自分が障害を持ってるっていうことを、言ってはいたんですけど、具体的にどういう障害で、どういう困難があって、どういう支援が必要になるのかっていうのを明確にしてなかったので、働きづらさを感じてたわけです。それを知ってもらった今は、ちゃんと、「ああ、こういった仕事はできますか」とか事前に確認が来て、「はい、できます」とかいうふうにやっていくうちに、「あ、働き続けられるかも」と、どんどんどんどん思うようになってきて、今の状態ですよね。これは、視覚障害があっても、ちゃんとそういった周りからの支援と、あとひとつ必要なのが工夫なんですけど、自分での、工夫があれば働き続けられるようになるんだなっていうのは、復職して1年後ぐらいに、ようやくそういう心境に達しました。
障害をもったことで研究者としての人生にどんな変化がありましたか?
島袋博士:まあ僕は画像を見ることが多いんですけど、画像を見て理解するというのは、真っ先に捨てましたね。結局、いろんな工夫をして、例えば凹凸で見るとか、そういうこともできなくはないと思うんですよ。なんですけど、学生を介して見るほうが早いですし、学生に対しても、その画像っていうのはどう理解したらいいのか、どういうことが、実験やってるうちにどういうことが期待できるかっていうのが、意識できるようになるんですよね。だから、学生の研究の理解を深めるためにも、結局は学生に画面情報を言葉にしてもらう、言語化してもらうっていう作業が一番いいのかなと思いましたね、はい。
研究は、われわれの研究室では、やはり顕微鏡を主に使うんですね。なんですけど、私自身はもう、直接顕微鏡を触ることは非常にもう少ないです。顕微鏡の前に座ってる学生がいて、学生に対して、口で、顕微鏡の部分をこう操作して、で、どう見えるか。学生は、顕微鏡をのぞいて、「こう見えます」と言うので、「そしたらこれを、顕微鏡のこの部分をいじって、どうなるか」って。「こう見えます」、「そしたらこの部分をいじって」、「じゃあ、こう見えます」。「じゃあ、これ、じゃあ、この見方で当たってるから、これでデータを取り続けてね」という流れになります。実際、顕微鏡を学生が使ってる、そのそばで指導をしながらやっていくっていうスタイルなんですけど、僕は、学生からの評判は悪くないと思ってます。というのは、顕微鏡を使ってるときに、ここをちょっと動かしてとか、ここのねじを回してとかいうことを指示するんですけど。そのときに、なぜそれをやってるのか、要するに、顕微鏡の原理をきちんと理解できるように説明しているんですよね。そうすることによって、学生が、単に機械が使えればいいっていうわけじゃなくて、機械を使うからには、その原理をちゃんと理解しないといけないんだっていうことで、学生の理解が深まってると僕は感じています。
研究については、もう、僕の生涯の趣味みたいなものなので、何というか、研究をやってるのが当たり前みたいな感じで、まあ、楽しいからやっているわけです。そこにやりがいがあるかって言われれば、確かに、今まで報告されてないことが分かったりするとやりがいはもちろん感じますが、何というか、そうでなくても一生続けていくんだろうな、もし、万が一、全く画像とか見えない状態になったとしても、それはそれで、また何か、文字を頼りにする何かしらの研究をやるのかなっていう感じです。
インタビュアー:目が見えなくなる、目に障害を持ったことというのは、ご自身にとってどんな意味があるかなとか、そんなことを考えたことはありますでしょうか。
島袋博士:うーん、僕は、生命科学者なので、あのですね、結論から言うと、運が悪かったなとしか思ってないんですよね。人間、実は、遺伝子が全て正常な人っていうのはいないんですよ。いないですし、何が正常な遺伝子か、実は分からないんですよね。で、たまたま視覚障害があって、僕みたいな、遺伝子が原因でなる病気なんかは、たまたま目にこういうふうにはっきり出ちゃう形の、遺伝子の壊れ方をしているわけです。多くの人っていうのは、別に、遺伝子、ある遺伝子が壊れてるんだけど、別に表に出てこないわけですよね。結局、実は、差は表に出るか出ないか、表に出たときもどれぐらいの程度で出るかっていうだけの話で。まあ、表に出る形の、遺伝子が変化っていうのを持っちゃったっていう意味で、運が悪かったなみたいな、進化に失敗したかなみたいな、ぐらいにしか思ってないですね。