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ご自身が専門にしてこられた昆虫の研究について教えてください

並木博士:私が対象にしている昆虫はハエです。私が行った研究というのは、例えば、昆虫の、ハエの羽ばたきを始めるような細胞ですとか、羽ばたきを速くするような細胞とかを発見することができました。なぜハエの飛行を研究するかなんですけれども、もともと羽ばたき飛行っていうのは、飛ぶことは人類の夢というか、古来からいろんな人が羽ばたきを真似して飛ぶことを考えてきました。現在では、羽ばたかない翼、普通の飛行機とかは固定翼で飛行が実現されてますけども、昆虫の羽ばたきにも、まだまだ研究、興味があると。例えば、現在では、災害時に人を探すような小さなロボットですとか、あとは、現在、地球上では、羽ばたき飛行は、飛行機とか大きなサイズでは実現できないんですけども、例えば、火星とか、大気圧が低くて重力も低いような環境では、すごく大型の羽ばたきロボットが機能するんじゃないか。そういったいろんな可能性があります。そこに貢献できるような研究を目指してやっています。

病気の進行のため海外での研究生活を中断して帰国された経緯について聞かせてください

並木博士:研究に関しては、ちょっと海外で研究をしてみたいなっていうことがあって、2013年の1月にアメリカの研究所に移籍をしました。そこでもですね、ジムに行ったりしても、やっぱり、何か分からないけど転んでしまう、ジムのランニングマシーンで転んでしまうとか、そういったことがいろいろあって、だんだんと、人にも足が変だっていうふうに言われはじめて、それで、やっぱり病気が何か進んでるのかな、と。

多発性硬化症で2種類あるんですけども、急に悪くなる再発寛解型と、急に悪くなるイベントがなくて徐々に進行していく進行型があるんですけれども、恐らくその進行型のほうなんじゃないか、と。進行型の人で、歩けなくなるまでの中央値は13年っていうのがあったんですね。なので、まだ留学してる間は大丈夫じゃないか、何とか、研究も面白いし、続けようと思っていました。

でも、やっぱり、それより、もう1年、2年後に、だいぶ歩くのが難しくなってしまいました。すごくもう研究もうまくいきはじめて、これからもっとやりたいっていうときに、いよいよ、杖なしでは歩けなくなったんです。それで、やっぱりちょっと大変だなと思って。あとは、日常生活でも、アメリカは車を運転しないといけなかったりとか、すごい田舎だったんですけども、いろいろアクセスが悪かったりとかで、日本で帰って治療したほうがいいんじゃないかと思って、急きょ、2015年の5月頃に帰国をしました。

研究の成果としても、多くの人に役に立つというか、認めてもらえるような成果ですし、自分がやりたかったことでもあるし、いろいろうまく回りかけて、足もどんどん動かなくなってたんですけれども、とにかく、一つは、まだ歩けるはずだっていうような根拠のない信念、考えがあったのと、すごく面白いので、多少歩けなくてもいいかと、研究のほうを優先していたっていうのがあります。実際に、いい結果がどんどん取れて、でも、ある日、やっぱり、何とか歩けてたっていうことはあったんですけども、ある日、全然、杖をつかないと歩けなくなって、当時は、車いすを使って生活するっていうのは選択肢にないというか、想像ができなかったことがあって、歩けなくなったらもう何もできない、まず生きていけないのかなっていうように、文字通りじゃないですけど、そういうイメージがあって、なので、歩けなくなったときは、もうちょっとこれは何かしないと駄目なんじゃないか、研究もできないんじゃないかっていうふうに思った。今では、車いすで研究してる方もいるんだっていう知識はありますけども、そのときは、もう、歩けないイコール研究できないのかなと。そうですね、そういった経緯になります。

障害をもちながら研究職に復帰するまでの道のりについてお話しください

並木博士:実際に帰ってきて、いろんな治療をして、何をやっても歩けるようにはならないんだっていうのを自覚して、もう研究はできないんだと思って、だいぶ落ち込んで、多分うつにもなってたと思うんですが、そのうち、とにかく何か食べていかなきゃってことで、研究者はもう、一回完全に諦めました。

それで、いろんな他の仕事の可能性を考えました。いくつか考えたんですけれども、例えば、一つは、学術系出版のライターに応募したりして、駄目だったんですけれども。今思うと、障害とか病気に関することを正直に書いたんですけども、ただ書いただけで、ネガティブな印象があったのかな。ちょっとうまく言えないですけど。書類で落ちてしまいました。その後はですね、転職するサイトに登録をして、いろいろコーディネーターの方と、アメリカにいるときもスカイプで何か相談したりとか、そうして、一つはコンサルタントです。もう一つは、製薬会社で新しい仕事ができて、メディカルサイエンスライターとか、メディカルリエゾンとかいう職業なんですけども、これまでのMR、伝統的な製薬会社の業務だと、自分の会社の商品を宣伝したり(しますが)、ただ、ディオバン事件とかいろいろあって、会社の営業部門と独立したようなポジションで、薬に関する科学的な事実に基づいて文章を書くっていうような職業があって、その二つで、いろいろ人材会社と相談したり応募もしたり、そういうこともしました。

転機になったのが、もともと勤めていたところのボスで、今の職場のボスでもあるんですけども、その人からちょっと声を掛けていただいて、でも、研究職は無理だと思ってたんですけども、そこの職場のホームページを見て、そうしたら、車いすで研究をされてる先生が、すごくアクティブに活躍されてる先生で、メディアとかにもよく出られてるんですけども、電動車いすで、脳性まひで、常に支援者がついてる先生が研究をされてるってことを知ったのが、一番のきっかけといいますか、また研究者もやってみようかなと思ったきっかけになりました。

本当に完全に、何て言うか、言い方があれですけど、一回人生を諦めた心持ちからしたら、また研究の世界でできるんだったら、ちょっとできるところまでやってみようかなという。うまく言えてるか分かりませんけど。特に、車いすで研究をしてるような先生のところにも、ちょっとお知り合いになりたいというか、いろいろ学べるところがあるのかなと思ったのが、そうですね、研究を再開する経緯になります。

復職後はどんなことに苦労されましたか?

並木博士:復職した当時は、まだ二本杖で歩いていたんですけども、電動の三輪車を使って、職場では二本杖で、ほとんど、すごくゆっくり、よちよち歩く感じだったんですけども。杖で大変なのは、移動はできるんですけども、物が全く持てないというのが一番大変でした。実験はほとんどしていなかったんですけれども、サンプルが運べなかったりですとか、何か溶液を調整するときにも、一つの溶液を作るのに、例えば十本ぐらい、十種類ぐらい試薬が必要な場合、ボトルを例えば十往復するのかっていうことがあります。その時は、持って来てもらったりですとか、人にお手伝いをお願いをしていました。

車いすを使うようになった後の話ですけれども、基本的に、部屋の中が狭くて通れないですとか、ごみ袋とか比較的小さな機材が置いてあったりですとか、多分、それも歩ける人にとっては、僕も歩けてたときには全然、もともと自分が使ってた研究室なんですけれども、やっぱり、非常に普通の人にとってはある意味使いやすいように使って、そういう状況になってると思うんですけども、私、車いすだと通れない。やっぱり、何回かメールとか口でお願いしても、何か物がずっと置いてあるような状態になってしまうのが、それは本当に、悪意とか全くなくて、そういうふうになってしまうのだなと、そういう何かジレンマといいますか、そういうのが苦労したところです。

インタビュアー:「変えてほしい」って言うっていうことは、何かすごくハードルはありますか。

並木博士:いや、すごくある。だから、やったらいいじゃないという話、そういう話になることもあるんですけど、やっぱり、何でしょう、多分、心理的なことなんですかね、すごく言いづらいっていうのはありますね。他にもできないことはいっぱいありますし。自分自身で物が移動できないですし、掃除も難しい。ごみ捨てとかも、そういうみんながやるべきことも担当できないですとか、基本的に、何をやるにもちょっとお願いしないとできないですよね。あとは、さっきも話しましたけども、今あるデザインが、皆さんが決めてきたことなので、自分が使いやすいようにしたいって言ったら、基本的に全部変えないといけない。理想的には全部変えるべきなんですけども、その中でどこまで交渉の余地があるのかっていうのは、それを話す、議論できる人もいない。自分しか判断できる人がいないのもあるのかもしれない。自分一人の判断で自信がないようなこともありますよね。それを話せる、分かる人が周りにいないのも原因なのかもしれないです。

障害をもったことで研究者としての人生にどんな変化がありましたか?

並木博士:一つ、転機といいますか、大学の、研究所の方針でですね、実際に私ですとか、障害のある人が使うことのできる実験室を造りましょうというような話をいただいて、今は元の研究室を改善するような方向性ではなくて、もともとアクセシブルな実験室を造るという方向で取り組んでいます。その中で、いろいろいま試行錯誤をしているんですけれども、実際には、アクセシブルな実験室を造る、私の個人的な考え方かもしれないですけれども、実験室を造ることができても、やっぱり一個しか造れないので、そこをどういうふうに生かしていくかというと、全国、他の大学でもアクセシブルな実験室を造るときに、実際にどういうふうに造るのかというのは、家で言うとモデルルームみたいなものがあると、一つはいいんじゃないかと。われわれ、実験室において、取りあえずのマイルストーンといいますか、恐らく、いずれかのところで、例えば、車いすの利用者と視覚障害のユーザーの利害が生じるようなところがあるんじゃないかと思います。多分、点字ブロックですとか、車いすの人にとってはバリアですけれども、視覚障害の方にはとても役に立つ。そういったものが実験室でも当然存在すると思うんですが、現状の研究といいますか、研究以外にも現状で行われている取り組みでは、まだ実験室においてどういうところがバッティングするかっていうのはそもそも明らかにされてない。それから、研究として考えるんであれば、これから造っていく上で、そういったものが発見できることが、まずステップ、進歩だというふうに捉えています。

この職場に来るまで知らなかったんですけども、障害を持つ人を支援して、それを研究にしてる人がいるっていうのを知ったこと、それでご飯を食べてる人がいるんだっていうのがすごい驚き、インプレッシブで、そういう考え方が自分にはなかったのかなって思いはあります。

あとは、もう、一回諦めたっていうのもあるので、よく言いますけど、障害者の人が外に出ていくこと自体で社会を変えるじゃないですけど。そんなこと言ったら、私が車いすで生活する、仕事するだけでも、価値があるなと、そうやってもいいのかなって思いました。ごめちょっとんなさい、うまく言えないですけども。

インタビュアー:先生が本当はやろうとして、アメリカに行って勉強をされて、研究されてたこと、今やっていらっしゃる研究はそれとの延長線上にはあるんでしょうか。

並木博士:正直、研究の内容については迷ってるところがあります。アメリカの研究の設備ですとか、周りにもいろんな研究者がいたりする環境は、やっぱり日本ではないと思ってます。なので、同じように考えたことを、日本でやるのは難しいのかなと思ってます。

まず、何でもまた研究を再開することに価値があるってことが一つと、その方向で取り組んでいるというのがありますけれども、もう一つは、車いすと関係なく、研究として価値のあることができるかどうかっていうのは、どんな可能性があるのかなと思っています。やりたかったことって何かって考えると、やっぱり、不純な動機ですけど、科学者になれれば良かったのかなと思ってます。それから、価値の高い研究ができれば良くて、その価値がですね、今の状況だと、ちょっと考え方が変わってるのかなと思います。ちょっと下世話な話で言うと、本当に、食べていければ何でも良くて、その中でできる限り価値の高いことができればいいのかなと思ってます。インクルーシブな研究環境っていうのは、以前は考えてなかったですけども、今は価値のあることなんだなっていう認識でいます。

あるシンポジウムで、アメリカで全盲の科学者の方がいらっしゃって、その方がおっしゃるには、障害を持つことが科学関係のキャリアを諦める理由になってはならない、というのがありました。その方の話を伝えるですとか、やっぱり実際に大学でそういう環境をつくることができればなと思って、それは実験室を造ることに限らず、国内でそういう話を広める。海外では、インクルーシブな教育環境についてのガイドラインですとか、事例とかが多くあって、それに比べると、日本ではそういった話は知られていないですとか、あまり文書も作られていないというのがありますので、まあ言ったら、海外の真似をするだけなんですけども、科学だったらもう全く真似するのは意味ないんですけども、そういうことは関係なしに、日本でできてないけれども、いいものは何でも取り入れていく。しばらくは多分、海外の真似をすることになると思うんですけども、そこで、例えば、日本は文化も法律も違うので、そこの調整を多分、仕事としてはできればいいのかなと思ってます。