Disabled in STEMM
田中仁博士インタビュー 字幕テキスト
はじめに数学の研究を志した経緯を聞かせてください
田中博士:我々の頃は、大学に行くということはほとんど考えられなくて、よっぽど有能な人じゃないと行けないとは思っていて、恐らく、もうずいぶん昔なので、マッサージ・鍼灸で生きることになるっていうのは、みんな思っていたとは思うんですが、私は、必ずしもそうは思わなくて、何か好きなことを見つけて、何かちゃんと勉強してみようというふうには思ってましたね。
インタビュアー:それは幾つぐらいの頃から?
田中博士:いや、何か、最初から。ものすごい小さい頃から、漠然と、いろんなことを知りたいなとは思い続けてました。なので、実は、僕は東京に、大学に入る前に鍼灸の勉強もしたんですけど、鍼灸の仕事に就くっていうふうには、何か、ずっと思ってなかったような気がします。
インタビュアー:じゃあ、鍼灸の勉強というのは、東京に出てこられてから?
田中博士:そう、大学に行く前ですね、高校を卒業した後。
インタビュアー:何年ぐらい?
田中博士:3年行ってましたかね。
インタビュアー:じゃあ、もう資格もお持ちでいらっしゃる?
田中博士:はい、持ってます。
インタビュアー:でも、実際になさったことは?
田中博士:アルバイトで少し働いたことはありますけど、私に鍼を打ってほしいとは思わないかなって思いまして、鍼灸で開業すると危険かなと思いました。
インタビュアー:どうしてそう思われたんですか?
田中博士:いや、キャラクターの問題で、カリスマ性というか、そういうのが必要なので、ちょっと私には難しいかなと。
インタビュアー:東京に出てくる段階では、鍼灸の資格を取るだろうということで、出てこられたということですか?
田中博士:いや、僕は、本当は鍼灸勉強したくなかったんですけど、大学に合格できなかったもので、やむなく行ったので、鍼灸で何とかしようとは思ってなかったんだと思いますね、心の底から。
インタビュアー:そのあたりは、例えば、中学・高校時代の先生とか、あるいは、ご家族とかは、どんな感じで?
田中博士:家族は、恐らく、鍼灸で早々に自立してほしかったとは思いますけど。あと、東京に出て良かったのは、ちょうど盲学校に、見えない数学の先生がおられまして、そういう先生に、何人かおられたので、出会うことができて、もうずっと、数学勉強したいなと、高校に入ってから早々に思うようになっていました。
インタビュアー:数学というのは、どういうところで魅力に感じられたんですか?
田中博士:まあ、基本的に理系ではあって、中学校の時なんかも、化学とかそういうのが好きだったんですけど、まあ、化学より数学のほうが実験もないし、そういうわけで、実際に見えないでも先生はいましたので、見えなくてもできるということが分かっていたので、数学頑張ろうかなと思いましたけども。
インタビュアー:やっぱり、実験っていうのは一つのハードルでしょうか?
田中博士:まあ、それが好きだっていう人も、もちろんいるんだろうとは思いますけど、僕は、そんなに実験して分かるっていうよりは、数式が言っていることを自分で理解して分かったほうが、本当に理解できるっていうかな、そういう認識、思いがあって、本当に分かるっていうので、数学が好きなのかもしれません。
大学の数学科で学び始めた当時のことをお話しください
田中博士:今となると、ほとんどの大学は数学に限れば、この頃は数学じゃなくてもかなり自由になりましたけど、[当時は]受験を認めてくれる大学も少なかったので、[高校と大学とで]いろいろ交渉していただいて、私が入ったのが、ブラインドとしては[その大学で]一番最初の学生として入学しました。今でも大学でやっていくのは大変でしょうけど、我々の頃はもっと、差別解消法もありませんので、大変だったと思いますけど。
インタビュアー:そこの大学は初めての[視覚障害者]ということでしたけれども、「私は受験したい」ということを、ご自身のほうから申し出られたのか、それとも、向こうが、「今年から視覚障害の方も受け入れますよ」って、何か発表をしたとかいうことなんですか?
田中博士:それはもう何年も、私の先輩の時代から、そこへの申し込みはしていたんですね。それで、受験の協議、受験協議じゃない、何かそんなような言葉でしたけど、それを重ねていて、入ってから分かったんですが、数学の学科長をされてた先生が、アメリカで学ばれてたことがあるらしくて、そのときにブラインドの学生さんがいて、一緒に学べるっていうようなことを見ていたので、その協議をした時に、学科長に代わった時ですかね、その前の人は許してくれなかったらしいけど、入ってから僕もお世話になったんですが、その学科長の先生が、やっぱり開放しようということにして、[受験を]許そうということにして、それで受けることができるようになったというふうに聞いてます。
インタビュアー:入学されてからはどういったことを、何か特別な配慮というのはあったんですか?
田中博士:基本的には数学科の場合は実験がないので、まず、講義のときに板書が多いので、そこで言葉に出して説明するようにお願いします、と。例えば、黒板に書いて、「このように計算すればオーケーです」とか、そういうことだったら困るので、今どういう式を書いたかとか、一応、概略でいいので言ってください、というふうに言うことと、あと、テキストなんかは、最初に参考書が与えられるので、早めにくださいっていうことはなかったと思いますね。だから、講義のときには、指示語をやめてくださいって言うぐらいだったと思います。
それから、試験は、僕の場合は結局、別室で、点字に直してもらった試験問題を解いて、それで、解答は、自分の解いたものを出題者の先生の前で読んで、それを一応、転記してもらって、それで試験という形にしていただいてました。
あとは、実際に入って、数学の場合は、実験はないんですが演習というのがあって、そこでこう問題を解いて、黒板で書かないといけないと、そういうことがあるので、それは知り合いに、友達に書いてもらってましたね、僕が言って。そんな感じですかね、学部の時には。
大学院に進んで研究者として職を得るまでに直面した困難についてお聞かせください
田中博士:大学院に行って、数学がどこまで勉強できるかっていうのも、よく分かっていなかったので、修士に入った時には、できれば修士論文としてオリジナルな結果が出せれば、最初は修士論文が書ければいいと思っていたけど、できればオリジナルな結果が出せるといいなと思いながら勉強はしてたんですけど、やってみると意外に簡単にオリジナルな結果が出たので、ドクターはもう頑張って行こうというふうに思いました。
インタビュアー:それで、見事博士号を取られて、その後、またご苦労されたというのはどういうことでですか?
田中博士:それはですね、本当に苦労なんです。僕、今、もう53になりましたけど、ちゃんと就職できたのはここの大学で採ってもらった4年前なので、50歳になって初めて、まともな就職ができたという。普通の人だったら、その前にどうにかなっていると思うぐらい苦労したんですけど。数学力はともかく、素晴らしい精神力を発揮して、何とか頑張り続けて、できたんですね。
98年にドクターを取ったんですが、そのときに既に、学術振興会[の特別研究員制度]っていうのがあるんですね。割とお金がもらえて、それで研究もできて、ドクターの時からもらえるんですけど、それももらえていたし、まあ論文も人並みには書いていたので、就職、アカデミックポストですね、大学の教員としてどこか採ってくれるだろうとは、勝手に僕は思ってたんですけど。98年に学位[博士号]を取って、就職ができたのは、パーマネントの[任期付きではない]就職ですね、それができたのは、先ほど申し上げたように、2016年ですから、18年間ですか、18年間苦労していたんで。その間に、東京大学で、特任プロジェクトの教員としては15年ぐらいやってたんですけど。今思えば、一応、給料はもらえてはいたんですけど、家族もいるしね、家族もいたので、給料はもらえてはいましたが、ああいうプロジェクトは基本的には毎年更新なので、それは本当に大変な心労がありましたね。
もちろん、公募は山ほど出したと。大抵の大学は出していると思いますね。100ぐらいは出したんじゃないかな。面接にも一度も呼んでくれないっていうのは、いくら何でもひどいんじゃないかって思ってましたけど、面接にも一度も呼んでもらえなかったですね。今だったら、差別解消法ができたから、少しはいいんじゃないかとは思うんですけど。その面接に通らないっていうのが、私の数学力がないからか、それとも、見えないハンディのせいかっていうことは、判然とはしないので、厳しいところでしたけど。長い間いましたので、もう論文も随分、「見えないでこんなに書いて」と、勝手に僕しか褒めないんですけど、僕は勝手に褒めて、随分頑張ったんですけど、とにかく苦労しました。もう二度とやりたくないです。
視覚障害のある数学者にとって科学技術情報の電子化はどういう意味がありますか?
田中博士:数学ですので、見えている人でも、基本的には、紙と鉛筆があればいいっていうふうにいわれて、この頃はコンピューターを使う人も多いとは思いますけど、私のところは、昔からの、見えていれば紙と鉛筆だけあれば、あと、本と論文ぐらいないといけないと思いますけど、そういうのがあればいいというところで、[私は]紙と鉛筆は使えないので、数式とか文書へのアクセスはコンピューターを使って、画面を音声化したり、ピンディスプレー[注:点字ディスプレイ]のほうに吐き出させて読んだりします。それから、書くのも、主にコンピューターで書くということになってますかね。
数式を書くのは、普通には、漢字変換のようにはいかないので、見えている人たちも、テック(TeX)っていうソーステキストで書かれたものをコンパイルしてですね、それで数式を吐き出すということをするのです。なので、僕らは、テックがなければ数式を書き出すっていうところでもバリアがありましたけど、数式を書き出すっていうところは、テックのおかげで書き出せたので、ますます就職させろよなって思いましたけど。
書くのはできるんですね。問題は読むほうだったんです。読むほうは、先ほど言ったように、学部の頃は、先輩の本、もしくは、必要な場合は自分で点訳を頼んでってことで、ボランティアの力を借りてやっていたわけです。それで、修士論文、ドクターの頃もそうかな、随分しばらくですね、ドクター取った後も、読みたい論文を手に入れると、手に入れるっていうのは、その頃はウェブでできるようになったので、PDFで手に入れるか、もしくは、コピーしてもらってですね、図書館の人に紙でコピーをしてもらって、それを、しようがないので、点訳ボランティアの方にお願いして、点字にして読んでいたということだったわけです。だから、読むほうは本当に大変だったんですが、2000年の最初の頃です、2002年とかそのぐらいだったと思いますけど。これは、いつも読んでいるインフティ・リーダー(InftyReader)、インフティ・プロジェクト(InftyProject)っていうのが日本で、これは日本の誇るべきことだと思うんですけど、先ほど、テックを原料に、テックっていうテキストで書かれたものから数式をコンピューターの中で作るっていうふうに言いましたが、その方向の逆ですね、だから、出来上がった数式から元々の最初のテックのソースを吐き出すっていう、逆のことですね、それをやってくれる方がおられまして、そのインフティ・プロジェクトの力を借りると、具体的には、PDFの数式で書かれた文章があれば、それを基に、先ほど言ったテックのソースを吐き出す、逆に戻して吐き出すということができるので、それで、論文には自動的にアクセスすることができるようになったんです。
ちゃんとグラフにして書いたことがないから分からないけど、私の論文の生成っていうのは、恐らく、そこでものすごくギャップがあると思います。それまで点字に直していて書いていた時と、そのあと、インフティ・リーダーといいますけど、そのソフトウエアで、数式に情報アクセスが非常に容易になったところから、急にこう論文がたくさん書けるようになったというふうになっているはずですけど。全然違うことになりました。
数学を目指す視覚障害の若者たちにメッセージをお願いします
田中博士:[数学は]ブラインドには非常に向いているので、一番向いている学問だと思います、僕は。歴史もあるし。一番よくそれが分かるのは、センター試験っていう試験がありますけど、そこの問題の量を見るとすぐ分かる。数学なんてぺらぺらなので。それにひきかえ、国語や英語なんか、ものすごくたくさん、見えている人たちもありますよね。だから、読む量が全然違うので。数学は、実験も要らないし、頭さえあればいいので、非常にブラインドには向いているんですよね。
やっぱり、必要なのはね、うん、愛ですね。数学、何でも必要だと思うな、愛が。熱意っていうかな、パッションだよ、パッション。見えない人は、戦い抜くには、やっぱりパッションがないと駄目じゃないかって、学生さんには言うんですけど、うるさがられています。
あと、感動できる能力が要るんですよね、生きていくためには。だから、「なんて素晴らしいんだ、この人は」と思う。例えば、数学の論文や何かを読んで、すごいなって思えるといいですね。このごろ、ものすごく面倒くさい論文を、最後まで読めなかったんだけど、人間は素晴らしいなと思いました。非常にわずかな手掛かりしかないんだけど、それをこう使って、どうしてそんなに知りたいんだろうって思うぐらい面倒くさい計算して。あれは、論文の力じゃない、論文を書きたいからじゃなく、きっと知りたいからなんだと思うけど、とにかく。そういうのが分かるので。何でも分かると思う、数学以外だってちゃんと、どんな仕事だってすれば分かると思うし、ちゃんとまっとうに仕事をして、人間の素晴らしさっていうかな、そういうのが分かると人生楽しいじゃないですか。