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ジャンフランコ・マトローネ博士インタビュー 字幕テキスト
幼少期における吃音の影響についてお話しください
マトローネ博士:まず初めにお伝えしたいのは、私が低学歴の家庭の出だということです。家族の中に大学まで行った人はおらず、私が最初の大学卒です。幼いころ、家族の皆が子どもに期待したのは、学業はそれなりにして、最終的に良い仕事に就くことでした。整備工やシェフや配管工のような仕事です。私が8歳の時に父が亡くなりました。母には4人の息子と1人の娘が残されましたが、私たちは皆まだ幼く、私は8歳でした。私はそんな家庭環境で育ったのです。
それで、私は4歳か5歳の頃からどもり始めました。正直、理由はわかりませんが、吃音が始まったのです。私は話すことが好きではありませんでした。自分に問題があると気づいた当時の私は、かなり敏感な子供でした。私は家族が問題を抱えていると知っていたので、新たな問題を持ち出したくありませんでした。大声をあげて、「僕の吃音をなんとかしてくれ」とは言い出せませんでした。私はこの問題を自分の中にしまい込んでいました。なぜなら、すでに大きな問題を抱えていた母に、新たな問題をつきつけたくなかったのです。本当の問題は、お金がないことでした。父が亡くなって、問題はさらに深刻になりました。そんな状況ですから、残念ながら私の吃音に関心が払われることはありませんでした。ほとんどの子供では吃音はそのうちになくなりますが、一部の子供ではそれが身体化されて残り、成長とともに吃音は慢性化して、治らなくなってしまいます。特に、学校で他の仲間と教室にいるときが悪夢のようでした。大勢の前で質問されたり、名前を聞かれたりします。とても簡単な質問ですが、それが最大の悪夢なのです。「あなた、名前は?」と聞かれる。それこそが悪夢です。とても簡単なことなのに、このようにどもってしまって、自分の名前を言えないのです。それは本当にもどかしいことです。わかりますか? 子供ながらに、自分の名前すら言えないのに良い成績を収めることができようか、と思いました。人前でいろんなことを話さなくてはならないのに、どうやったらそれができるんだろうか? 結果として、私は書面のレポートではよい成績を修めていましたが、口頭で質問されそうな場面はありとあらゆる手段を使って避けていました。吃音は悲惨です。本当に悲惨です。子どもの頃、神様はなぜこんな苦難を与えるのか、と思いました。代わりに足を差し出してもいい、目と手を差し出してもいい、でも吃音だけは耐えられない、それほど辛いのです。なぜなら、口がきけないわけではないからです。みんなあなたが口がきけると知っているのに、話そうとするとどもってしまうのです。しかも、少なくともあの時代は、80年代初頭といえば今から40年前のことですが、吃音は障害とは見なされていなくて、笑いのネタにしていいものでした。とても残酷なことですが、映画の中でいつも吃音者は頭の弱いやつです。吃音のある人は、ちょっとだけなら笑い者にしてもいいのです。頭は悪くないけど大したことはないとか、そこそこできる奴だがどもるから駄目だなとか、それが当時の文化であり、今でも続く大きな文化的問題なのです。
科学者の道を歩み始めた経緯を聞かせてください
マトローネ博士:今思えば、子どもの頃から科学が大好きでした。小学校の頃、数学が得意だったのを覚えています。年齢の割にはとても出来が良かったと思います。中学の最終学年になったとき、リチェオ[注:大学進学のための高校]に進んで勉強をするのか、自分にとってより楽なことを学ぶかを選ぶことになり、私は料理学校を選びました。料理が大好きなので、それはそれでよかったのです。嫌いなことではなかったですし。料理学校でもほんの少しだけ数学の授業もあって、そこでもとても良い成績を修めました。もちろん、それは理系のリチェオに行ってやるような数学ではありませんでしたが。でも、4年生になると、食べ物がどのように作られ、どのように構成されているかについての授業が行われるようになりました。教授は、タンパク質がどのように形成されるか、核酸がどのように形成されるかについて話し、黒板にいくつかの化学式を書き記しました。それが、私の進むべき道はいま居る料理ではない、と気づかせてくれたのです。それで、18歳で料理学校を卒業した時、「生物学をやってみたい、僕の人生なんだから、どうしても生物学をやってみたいんだ」と言いました。家族は納得してはくれましたが、あまり歓迎してはいませんでした。「いい仕事が見つかったのに、良い給料がもらえているのに」と言われました。当時、すでに、夏の間、レストランでシェフをやっていました。まだ見習いで、本物のシェフではなかったのですが、家族は私の(料理への)情熱を評価していました。でも、「どうしてもやってみたい」と言ったら、母が、「わかった、やってみなさい」と言ってくれました。そうやって、生物学の学徒としての私のキャリアが始まりました。
インタビュアー:大学の学部時代は吃音で苦労されましたか?
マトローネ博士:はい、大変でした。大学での学びを思うように楽しめませんでした。例えば、ディスカッションをする場面です。生物学の学部生は、実習で動物学博物館に行き、興味深い研究成果を目にする機会が与えられます。私は、自分の考えを伝えることでその場に貢献したかったのですが、決して積極的に自分の考えを伝えることができませんでした。そのため、重要な学習の機会を失うことになってしまいました。成績の良い学生でしたが、自分自身を隠していたので、大学生活を十分に楽しめませんでした。吃音を嘲笑されるのが怖かったので、ずっと自分を隠していたのです。いずれにせよ、試験で口頭試問の時は、とてもよく勉強しました。なぜかというと、私は吃音が出ないように、すべてを丸暗記していたからです。とんでもない話ですが 最初の2、3回の試験では、私はすべてのトピックを丸ごと暗記していました。さらに、私は音楽家が使うようなメトロノームを使い始めました。それは小さな電子機器で、耳に装着してリズムをとるというものでした。このツールを使えば、試験会場で席に着いたとき、よりリラックスして、言いたいことを言えました。でも、その時の私のしゃべり方は、ちょっと単調に聞こえただろうと思います。なぜなら、「わ、た、し、の、な、ま、え、は、ジャン、フラン、コ、マト、ロー、ネ」みたいな感じで喋るので、単調に聞こえます。私も満足はしていませんでしたが、少なくともこれで吃音は出ませんでした。私は、このツールを大学生活の終わりまで使っていました。使う時と使わない時がありましたが、最終的には、このツールが私を助けてくれました。そして、卒業しました。しかも、満点で卒業しました。私は、非常に優秀な学生だったんです。非常に良い成績で卒業できました。だから、科学の道に進もうと思ったんです。
理工系領域でのキャリアに吃音が影響したことは?
マトローネ博士:吃音者にとっては、いかなるディスカッションもとても難しいものといえます。ディスカッションでは、自分の考えを伝えるために適切な言葉を探すのと同時に、どもらないための適切な言葉を見つける必要もあるからです。つまり、常にふたつの仕事を同時にこなさなければならないことになります。それはとてもストレスのかかることなので、吃音者が話すのを避けようとするのは理解できます。(大学院に進んで)研究室に入ると、競争が激しい中で常に議論をしないといけません。その時には、事前に準備する暇はありません。常に即興でやらなきゃいけないのです。その瞬間、瞬間で、準備ができていなくてはならない。当然、メトロノームなどは使えません。誰かが質問した時、「ちょっと待って、メトロノームを耳に装着しないと」なんて言っていたら、馬鹿げたことを言っていると思われるでしょう。それで、私はこのツールを使わなくなりました。つまり、何の助けもなしにひとりで泳ぎ始めたのです。研究所のように、限られた資金をめぐって非常に激しい競争が起きている分野では、人は互いに助け合おうとせず、出し抜こうとします。そんな中で、私は自分の考えをうまく表現できなくて大変でした。そして、再び、私は以前と同じ問題に直面しました。つまり、議論をするときに、吃音を避けようとしてしまうのです。吃音があることを相手にはっきり知られないよう、他の言葉を探さなければなりませんでした。しかし、それでは科学的な思考に集中することができませんでした。とてもまともな精神状態ではなかったので、私の科学的思考は明晰ではありませんでした。教授が私をあまり快く思っていなかったのを覚えています。博士課程の面接にも落ちました。自分があまり賢くない人間と思われているのはわかりましたが、それは本来の私ではありませんでした。自分ではない人のイメージを与えていたのです。博士課程の学生資格を取得できなかった私は、キャリアに将来性がないことに気づきました。私は、あることを考え始めました。あれは自分にとって本当に絶望的な時期でした。人生で最も暗い時期だったんです。本当にたくさん勉強して、いい成績で卒業して、たくさんの犠牲を払ってきたのに、自分が望むキャリアをつかむことができない、自分の道を進んでいけないと思ったのです。私は希望を失いました。あらゆる不利な要因が立ちはだかっていました。その時点で私にとって唯一の解決策は、本当に絶望的だったので、本気で厨房の仕事に戻るべきなんじゃないかと思い始めました。自分が得意なアイスクリーム屋を開くべきなのではないかと思ったのです。そして、「まあいいか、こうしていい仕事につけたし、(科学者になろうと)頑張ったけど、ダメだったね」と言えばいいだろうと。でも、そこでアイスクリーム屋を開業していたら、それなりにお金を稼げたかもしれませんが、私は空っぽの人間になっていただろうと思います。50歳になったとき、「若い頃には夢があったんだが、人生はそううまくは行かないんだ。夢を叶えようと努力はしたんだが、うまくいかず、夢は諦めたけど、それでいいんだ。自分は満足しているよ」なんて話をする人に私はなりたくなかった。夢をそのまま実現したかったのです。そして、50歳近くになったいま、ひょっとしたらアイスクリーム屋のおやじになっていたかもしれないが、そうはならなかった。私はまさに、自分がやりたかったことをやれる人間になれたのです。
インタビュアー:人生で一番辛く、暗い時期だったんですね。20歳代前半のころのことですか?
マトローネ博士:はい、20歳代から30歳代の間です。この時期に、私は自分の問題を解決するため、明確な方法を見つけようと決心しました。それが、私が精神分析を受けた理由です。自分がなぜこれほど吃音を恐れるのかを、理解したかったのです。私がそれを理解して、ありのままの自分を受け入れるのに、1年かかりました。それで、他人がどう思おうと、吃音があることをきちんと伝えなければならないのだとわかりました。他人が私のことをどう思うかは、もう気にしないことにしました。そうしているうちに、いつの間にか、恐怖心がなくなったのです。その時から状況は改善し始めました。私は博士課程の学生資格を取得しました。そのとき、私のキャリアが、科学者になりたいという私が望んでいた方向に進み始めたと実感しました。これが大きなターニングポイントでした。科学者としてキャリアを達成できると実感したのは、有名な大学で博士課程の大学院生の資格を取得したときでした。
難聴になってから直面した問題についてお話しください
マトローネ博士:48歳になった今、喜ばしいことに、吃音は私のキャリア形成の障害ではなくなりました。何年も苦しめられましたが、ありがたいことに、徐々にそれは、二次的な問題になってきています。一方、20歳代前半の頃、私は難聴を発症しました。これは耳硬化症という慢性疾患で、緩やかに進行し、両耳の手術を受けましたが、残念ながら打つ手はありません。いま補聴器をつけていますが、これで十分な問題解決にはなりません。補聴器は多少は役に立ちますが、聴覚訓練士や耳鼻科の専門医たちも、補聴器は少しは役に立つけれども、十分な問題解決につながらないと言います。なぜなら、音が聞こえているけれど、聞こえ方が不明瞭だからです。その人が何かを言っているということはわかりますが、言葉を正確に聞き取ることができません。単語の細部まで正確に把握することができないのです。発話者は、ひとつの単語を言っているのではなく、センテンスを口にしているのですが、私は(単語から)センテンスをまとめ上げることができません。そのため、多くの場合、正しく聞き取れず、たびたび聞き返してしまいます。
だから、打ち合わせをするときは、今みたいにTeamsでやりとりするのが好きです。実際、オンライン会議は、人とのコミュニケーションにとても役立ちます。ですから、なるべくオンラインミーティングにするよう心がけています。パンデミックの間、マスクのためにずいぶん苦労しました。私は完全に孤立していました。なぜなら、マスクなしで話すことができない一方で、マスクをすると唇が読めないので、とてもとてもつらかったです。ですから、人と接するときはほとんど、オンラインミーティングにしていました。
パンデミックの後は、通常は補聴器を使っていますが、例えば、会議に参加するときは、常にマイクを使うようお願いしています。実をいうと、私は、「EDI(平等・多様性・包摂)チーム」の一員です。私はこのチームに属しているので、周りの人もよくわかっています。自分が難聴であることをはっきり開示しているので、何が聞こえて何が聞こえないのかと、みんなよく聞いてくれます。大抵、こう答えます。「何も聞きとれません。何か話していることはわかるけれど、あなたが同僚のほうを向いて話すと、何を言っているのかは聞き取れません。あなたが私に話しかけているつもりでも、どんなに近くにいても、別の方向を向いていたら、あなたが何を言っているのか理解できません」と答えています。それで、EDIチームの皆と話し合って、会議では、すべてのプレゼンの前に、必ずあるスライドを出してもらうように要請することを決めました。「誰もがあなたの声を聞くことができるようにマイクを使ってください」というスライドです。それが容易ではないことは理解しています。20人や30人しかいないような会合なら、きっと聞こえるだろうと考えがちですが、決してそうではないのです。ですから、そのことをはっきりと伝えてあげて、人々を教育する必要があります。自ら話し、問題を伝えることが大切で、そうしないと、人々は問題を認識することができません。マイクの話は一例に過ぎませんが、聴衆がいるときマイクを使うことは非常に重要です。そして、マイクの近くで話すことです。繰り返しになりますが、ただマイクに向かって話せばいいわけではなく、マイクを遠くに構えながら、「私はマイクに向かって話している」と言っても不十分で、口をマイクにかなり近づけてもらう必要があるんです。そのため、様々な調整が行われています。現在、ほとんどすべての講義室には、補聴器につなげることが可能なTループ[注:直接、補聴器や人工内耳に信号を伝える磁気誘導装置]が設置されています。繰り返しになりますが、難聴は私がいま抱えている問題です。それはハンディキャップであり、今やっていること以上にできることは何もありません。むしろ、この問題の先を見据えて、辛抱強く前に進むことがとても大切です。実際、吃音と若い頃に経験した多くの問題は、犠牲を伴いながら、多くのことを教えてくれました。だから、今はそれでいいんです。
障害のある若い研究者にアドバイスをお願いします
マトローネ博士:第一に、障害のある人のインクルージョンは非常に重要です。なぜなら、これまでも障害のある人たちは、特定の分野および科学一般の知識の発展に貢献してきました。前例をいくらでも挙げることができますが、ほんの一部について(記事を)書きました。1964年にノーベル化学賞を受賞したドロシー・ホジキンは、X線結晶構造解析を用いて、インスリンなどの分子の原子構造を解明したのですが、彼女は関節リウマチを患っていました。ジョン・ドルトンという化学者は、原子論を化学に導入したことで知られていますが、彼は自分の色覚が普通ではないことから、色覚異常に関する史上初の研究を行いました。ドルトニズム[注:先天赤緑色覚異常]として、後世に知られるようになった研究です。アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、この人たちについて説明する必要はないですよね? でも、彼らが吃音者、しかも重症の吃音者だったことをご存じでしょうか? 彼らは、生涯、自分たちをからかう人たちと闘っていました。アイザック・ニュートンは、彼をからかうために吃音を持ち出す人々に非常に苛立っていました。あのアイザック・ニュートンがですよ。チャールズ・ダーウィンも同じでした。チャールズだけでなく、ダーウィン一族は吃音者の家系でした。彼の祖父、エラスムス・ダーウィンも、優れた頭脳の持ち主でしたが、吃音でした。このような例をいくらでも出すことができます。スティーブン・ホーキング博士も、障害を持つ偉大な物理学者でしたよね。(科学に)多大な貢献をした障害者のリストは無限に長いものです。彼らなしには科学の発展はありませんでした。
ですから、吃音や難聴など、障害を持つ人たちにアドバイスしたいのは、科学に集中すること、夢を見失わないことが大切だということです。あなたは障害を持っています。その十字架を抱きしめなさい。いいんです。ただ十字架を抱きしめて、前を向き、その先を見据えましょう。吃ってしまうとき、ハンディキャップのせいでイライラしているとき、孤独を感じるとき、その孤独の中で、あなたは唯一無二の存在であることを思い出してください。あなたは他のみんなと同じように、唯一無二であり、今しかない存在です。これまでも、そしてこれからも、あなたと同じ人は現れないのです。ですから、あなたの貢献は、科学にとって唯一無二なのです。あなたの貢献は科学にとって不可欠です。先ほど挙げた過去の科学者たちと同じです。彼らは、障害があるからこそ、それができたのでしょう。ですから、あなたの貢献は科学にとって不可欠であり、この世界にとって不可欠です。あなた次第です。一生懸命努力して、必要なときには助けを求めなさい。きっとあなたは成功するでしょう。