Disabled in STEMM

モナ・ミンカラ博士 字幕テキスト

あなたの障害についてお話しください

ミンカラ博士:モナ・ミンカラといいます。ノースイースタン大学生物工学部の助教で、計算研究室を主宰しています。黄斑変性・錐体桿体ジストロフィーという病気のため、眼が見えません。左目のみわずかに光を感じる事ができますが、網膜はほとんど機能していません。

インタビュアー:それは進行性の病気なのですか?

ミンカラ博士:はい、7歳で診断時にはほぼ見えていましたが、10歳の頃には9割方見えなくなりました。病気の初期に急速に進行しました。

化学者の道を歩む上で視覚障害はどのような影響を及ぼしましたか?

ミンカラ博士:計算化学でタンパク質の研究をする場合、通常は動画で動きを確認します。私は見えないので、別の方法を考える必要がありました。そこで、タンパク質の動きを数学的にプロットすることにしたのです。そうすることで、眼で見ることができない私が初めてデータとつながる事ができました。それにより、眼が見える同僚が見落としていたあるパターンを観察することができたのです。そして、このタンパク質の機能について学術論文を出す事ができました。「ヘリコバクター・ピロリ菌ウレアーゼの分子動力学解析」というタイトルです。

そういえば面白いお話があります。PhD取得後、就職活動をしていた時、J. I. シードマンという教授が連絡してきてくれ、「モナ、君の仕事があるよ」と言うのです。私が「応募していないのに本当ですか?」と聞いたら、教授は「よければ私と一緒に働こう」と言ってくれました。そこで、教授に会いに行きました。私が「本当に私を採用したいのですか? 私は作業をするのに時間がかかりますし、合理的配慮も必要なのですが」と言うと、彼が「イエス」と言うので、さらに聞きました。「どうしてあなたの研究室に欲しいのですか?」彼は答えました。「あなたがどうやって研究しているのかわかったからです。あなたは他とは違う考え方をする。だから、他の人が解決できない問題を解決する事ができる」。そう言われて、とても驚きました。ミネソタは寒いけれど行かなくてはと思いました。こんなに素晴らしいチャンスなのですから。この教授のおかげで、自分自身に対する認識が変わりました。視覚障害が強みになり得ると考え始めたのです。私の人生にとって、非常に大きなターニングポイントとなりました。ミネソタ大学のこの教授のところに行くと、常にハイレベルの科学を求められました。でも、私が研究に時間がかかる事や、合理的配慮が必要な事も理解してくれました。

米国では、日本でもそうかもしれませんが、教員に応募する際には、良い教員であるだけでなく、自分自身の研究アイデアが必要です。その研究アイデアには独自性が必要で、それを示せなくてはなりません。精神的にも大きな試練です。でも、精神的な強さや科学的アプローチの点では、私は欠けてはいませんでした。ただ情報が見えない、目の前のデータが見えないというだけです。科学者はたいていデータを視覚的に扱いますが、私にはそれが見えません。でも、私はこう反論します。データを視覚以外の様式、聴覚や触覚などで示すようにしたらどうかと。ぜひ考えて欲しいのですが、もしも科学が排他的なままなら、私たちは解決すべき問題を解決できないでしょう。でも、科学をインクルーシブなものにして、情報もデータも研究室の環境も、どんな人でもアクセスできるようにすれば、より多くの人が問題解決プロセスに参加できる。それが人類全体を助けるのです。

化学を視覚障害者にも学びやすくするにはどうすればよいでしょうか?

ミンカラ博士:実験を例にお話ししましょうか。私は実験化学ではなく理論化学ですが、でも視覚障害がある人が実験をしたければ、インディペンデンス・サイエンスという企業が、話す機器を作っていて、pHを読み上げたり、溶液の色を教えてくれたりします。実験室のものをすべて聴覚で使いこなせるようになっているんです。素晴らしいですよ。

実験科学をする場合に必要なことは、ビーカーで溶液を混ぜる事だけではありません。それは誰かに手伝ってもらえるので、あなたは何をするか考える脳でなくてはいけませんね。それが本当に重要なことなのです。

私がどのように研究をしているのか? それはたくさんの情報があり、長い話になりますが、私は新たな作業を始めようとするたびに、新たな問題解決のテクニックが必要でした。いま、monaminkara.comというページを作り、視覚障害の科学者向けのツールを紹介しています。これまでに使ってきたツールすべてについて紹介しています。理論化学のシミュレーションにはPCを使うので、スクリーンリーダーが必要です。さらに、タンパク質の形がわかるように誰かに粘土で作ってもらったり、指でたどれるようにグルーガンで紙の上にプロットしてもらったり、モールで3D構造を作ってもらったりします。そのほかにも3Dプリンターを使うなど、目の前にあるデータを理解するために、あらゆる方法を試しています。

でも、まだまだこれから長い道のりです。真に科学をインクルーシブに変えるには、情報へのアクセシビリティへの対応が必要です。インターネットで学術誌をダウンロードできても、アクセシビリティ対応ではないので、スクリーンリーダーでは読めません。無限ともいえる情報に対して、眼が見える同僚はアクセスできても、私にはできません。これを変える必要があります。今後は、学術誌の記事を含め、何をつくるのにもアクセシビリティ対応にしていく必要があります。

インタビュアー:それはどうやって? 実現可能なのですか?

ミンカラ博士:いえ、その技術自体はすでにありますから、あとは実行するだけです。PDFに予めアクセシビリティ機能を持たせれば、スクリーンリーダーで読む事ができますし、PDFにタグ付けをすれば、手で読める3Dグラフを印刷できるし、スクリーンリーダーで聴く事ができます。他人に頼らなくてもスクリーンリーダーがあれば速く読めるし、3Dグラフがあれば自分の手で理解できる。全てやろうと思えば可能なのです。あとは学術誌を発行する時の設定にするだけです。社会が取り組むべきアクションだと思います。

教師としての経験と教えることに対する情熱について教えてください

ミンカラ博士:教えることが大好きです。私にとって教えることとは、学生と対話し、科学の話をわかってもらう事です。学生たちがわかるよう教えようと努めています。本当に有意義な深い旅路です。2019年に初めて生物工学の授業を教えました。生体分子の動力学と制御についての授業でした。実はこのときの経験をもとに論文を書いています。数学的で化学反応速度式をたくさん使う授業をどうやって教えるか、まったく手探りでした。そこで、予めノートを作り丸暗記しました。授業では、学生にはノートの一部を空白にしたものを渡しました。授業で学生が手を上げても見えません。だから、大声で名乗ってから質問するように言いました。双方向の授業をめざして、学生たちが発言し、一人一人にしっかり授業に関わって欲しかった。「誰か、この定義を読んでくれない?」「誰か、この質問の答えがわかる人いる?」と私が呼びかけて、絶え間なく学生とのやりとりが続くんです。学生は初めは恥ずかしそうにしていましたが、慣れると自分の名前を大声で言ってから、「先生、これはどうですか?」「ここを聞きたいです」と話し始めました。双方向のやりとりは学生も気に入ってくれました。とても興味深い経験もありました。教師になって最初の授業アンケートを取った時のことです。一人の学生が、私の授業を取った事を両親が最初とても心配していたと教えてくれました。両親は私が盲目の教師だと知って怒ったそうです。子どもの授業料をだまし取られたと思ったのです。そんなふうに考えた保護者がいたことを、私は知らなくてラッキーでしたが、視覚障害者に授業ができるわけがないと怒っていたそうです。でも、学生は最後に、今までで一番好きな授業だったと言ってくれました。本当に素晴らしい経験でした。このことは論文にも書きました。関心がある方は、 “The Influence of a Blind Professor [in a Bioengineering Course]” という論文を探してみてください。

あなたをそれほどに駆り立てるエネルギーと情熱はどこからくるのでしょうか?

ミンカラ博士:根源的に好奇心が強い人間なのだと思います。そのおかげで科学者になれたし、旅人にもなれた。東京へも行く事ができました。YouTubeに東京エピソードとして動画を上げていますが、素晴らしい旅で、公共交通がとても気に入りました。探求をするたびに、新たな学びを得て、心の中に新しい繋がりを作り、別の新しい何かを作り出すでしょう。学びの輪ができていくのです。 自分が「知の触媒」である事が重要だと思い、ウェブサイトにもその事を書いています。「知の触媒」とは、好奇心・関わり・発見・共有の4つの概念に私が名前を付けたもので、中でも特に周囲への共有が一番重要です。自分の知の探求に留まっていては不十分だからです。大切なのは、私が共有しているのは知識だけではなく、私がそこに至った道のりも共有するんです。ですから、共有の仕方も重要です。聞き手によって伝え方を変えなくてはならない。人に教えるというのは、違う視点を持つ人に情報を届けるアートなんです。 私が教師としてわくわくする瞬間は、うまく理解できない学生がいるときに、言い方を変えたり、違う例示をすることで、すっとわかってもらえたりした時なんです。これがとても嬉しいのです。私の共有スキルも向上しているという事だからです。